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バルトのあんな話、こんな話


日本のシンドラー、杉原千畝氏について

杉原千畝 リトアニアと日本の関係で真っ先に思い浮かぶ人は、ユダヤ人6000人の命を救った杉原千畝氏でしょう。

ソ連が警戒するほどロシア語が堪能だった杉原氏は、希望していた在モスクワ日本大使館赴任を ソ連側から拒否され、フィンランドの在ヘルシンキ日本大使館にいったん赴任しましたが、 その後1939年(昭和14年)に運命のリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となりました。
しかしすぐに第二次世界大戦勃発。1940年(昭和16年)にはナチスドイツ占領下にあったポーランド のユダヤ人が難を逃れてリトアニアに逃亡し始め、通過ビザを求めて各国領事館に押し寄せました。 中でも、日ソ不可侵条約を結んでいた日本は、遅くまで領事館業務を続けていました。 領事館の前はビザを求めるユダヤ人で埋め尽くされ、杉原氏は 本国の外務省にビザ発給の許可を申請しましたが許可は下りず、当時の松岡洋右外務大臣からもじきじきに 難民へのビザ発給不許可の通告を受け、さらにソ連のリトアニア併合による各国大使館・領事館 閉鎖を言い渡され、やむを得ず撤退をしなければならなくなりました。
優柔不断な当時の政府や外務省の非人道的な判断に反いて、杉原氏は必要書類の揃わないユダヤ人たちの パスポートにビザを発給することを決意、撤退を余儀なくされるぎりぎりまでビザの印を押し、サインを 書きつづけたのでした。

その後そのユダヤ人たちはシベリア鉄道でウラジオストックへ向かい、船で日本の敦賀港に上陸、 神戸のユダヤ系ロシア人のコミュニティーに助けられ、一部の人々はアメリカ、パレスチナへと向かいました。 その他のユダヤ人たちは太平洋戦争勃発後アメリカに渡れなくなったため、 上海のユダヤ人ゲットーに移動、収容されました。

1945年すべての戦争が終わりを迎え、1948年には米・英の援助のもとでユダヤ人の国として イスラエルが建国され独立を宣言しました。

それから28年後、命を助けられたユダヤ人の一人が在日イスラエル大使館勤務のために来日、杉原氏との再会 を果たし、翌年イスラエル宗教大臣より勲章を、また1985年にはイスラエル政府より「ヤド・バシュム賞」 が杉原氏の功績をたたえて授与されました。

2007年5月の天皇皇后両陛下のバルト三国歴訪では、ヴィリニュス市内の記念碑を訪問しました。 カウナス市内の旧日本大使館は現在カウナスマグヌス大学の一部となっていますが、 杉原記念館にもなっています。

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